『ごめん、今日残業あるから帰り遅くなると思う!』
「甲斐からだった。今日残業あるから帰り遅くなるって」
「ふーん。开股票户口 今日会う約束してたの?」
「うん。どこかで一緒に外食して帰ろうと思ってたんだけど……」
でも、帰りが遅くなるなら仕方ない。
最近新しく大通に出来た、赤身のステーキが食べれるお店に行こうと話していたけれど、ステーキはまたの機会にお預けだ。
「だったらさ、甲斐の家に行ってご飯でも作って待ってれば?」
「え、私一人で?」
「だってこの間、合鍵もらったんでしょ?」
そう、先日甲斐からいつでも家に来ていいからと合鍵をもらったのだ。
でも、まだ一度も使った試しはない。
なかなか使う機会もないし、甲斐がいないときに行くのはどうなのだろうと思ってしまい使えずにいる。
「サプライズでご飯作っておけば、喜ぶんじゃない?」
「そうかなぁ……引かない?重いと思われない?いい彼女ぶってるって思われないかな」
「あんたは少しくらい、いい彼女ぶった方がいいんじゃない?たまには甲斐が喜ぶようなことしてあげないと」
蘭に半ば強引に背中を押された私は、結局仕事を終えた後、自分の家ではなく甲斐が一人暮らしをしているマンションへ向かった。
今夜の食事のメニューは、甲斐の好きな豚のしょうが焼きにした。
とりあえず作ったら少しだけ帰ってくるのを待ってみて、それでも帰って来なければ大人しく退散しようと決めていた。
「……ウザいと思われないかな」
勢いで来てしまったけれど、ここまで来たらもう行くしかない。
重い女だと思われてもいいと覚悟を決めてマンションのオートロックを解除し、エレベーターで上がっていく。
そしてエレベーターから降りると、甲斐の部屋のドアの前に一人の女性が立っている姿が目に映った。
綺麗な黒髪のショートヘアー、意志の強そうな大きな瞳、女性にしては背が高くまるでモデルみたいで、初めて見る女性だった。
まさか、この女性も甲斐に好意を抱いているのだろうか。
嫌な予感しかしない。
気付かなかったフリをして下に戻ろうかとも思ったけれど、この女性と甲斐がどんな関係なのか聞かずに帰ることは出来なかった。
「あの……」
意を決して、甲斐の部屋の前で佇む女性に声をかけた。
すると、彼女の黒く澄んだ瞳が私を捉えた。
「あなたもしかして、七瀬さん?」
「は、はい。そうですけど……」
私の名前を知っていることに驚きながらも肯定すると、彼女の綺麗な顔に笑みが浮かんだ。「やっぱり!前に悠里のスマホの写真で見た顔と同じだからすぐにわかったわ」
なぜか彼女は、とても嬉しそうだ。
不思議に思いながら、その笑顔が誰かに似ている気がした。
「あの、失礼ですけどどちら様ですか……?」
「私、悠里の姉の遥です。悠里とどことなく似てるでしょ?」
「あ……!」
そうだ、甲斐の笑顔に似ているのだ。
まさかこんな所でこんな風に甲斐の家族に会うことになるとは思わなかった。
私は姿勢を正し、自己紹介をした。
「初めまして!私、七瀬依織といいます。甲斐……じゃなくて、悠里さんとはお付き合いさせて頂いてます」
「そんなかしこまらないでよ。ねぇ、それより依織ちゃん、この部屋の鍵持ってたりする?」
「あ、はい。持ってます」
「良かった!どうにか下のオートロックは他の住民と一緒に入れたんだけど、さすがにこの部屋の鍵は持ってなくて。開けてくれない?」
私は急いでバッグから鍵を取り出し、甲斐の部屋の扉を開けた。
すると彼女は「疲れたー!」と言いながら甲斐の部屋に上がり込み、リビングのソファーに腰を沈めた。
「悠里に今日泊めてって連絡したんだけど、返事こなくて。依織ちゃんが来てくれて助かったわ」
人懐っこい笑顔を見せながら、彼女は冷蔵庫からビールを取り出し勝手に飲み始めた。「ねぇ、依織ちゃんも一緒に飲まない?お酒飲める人?」
「飲めるんですけど、とりあえずご飯作ろうかなと思って……甲斐、今日珍しく残業なんです」
この豪快なお姉さんの前では取り繕う必要はないように感じたため、かしこまって甲斐のことを悠里さんと呼ぶのはやめることにした。
「えー!なになに、今日のメニューは?」
「豚のしょうが焼きです。あとは味噌汁とか胡麻和えとか適当に作ろうかなと思って」
「豚のしょうが焼き大好きだわ。お願い!私の分も少しだけ作ってくれる?」
「もちろん作りますよ」
お肉、多めに買っておいて良かった……。
私はキッチンに入り、早速調理を始めた。
遥さんはその間、ビール片手にテレビを見ながらくつろいでいる。
ちょっと強引で破天荒な人のように感じるけれど、憎めない人だと思った。
初対面の私に対しても気さくに話しかけてくれる。
甲斐の人見知りしないオープンな性格は、このお姉さんに似たのかもしれない。
三十分ほどで全ての食事を作り終え、テーブルに運んでいく。
この家の主である甲斐はまだ帰ってきていないけれど、遥さんが早く食べたそうにしていたため、先に二人で食事をすることにした。「肉最高!ビールに合うわぁ。悠里のヤツ、こんな美人で料理上手な彼女がいて幸せ者だわ」
「いや、そんなことないですよ」
「アイツさぁ、もうずっと前から依織ちゃんに片想いしてたのよ。だから付き合い始めたって悠里から聞いたときは、本当に嬉しくて」
甲斐にはお姉さんが二人いる。
家族の仲は決して悪くないと言っていた。
だから私の話もお姉さんたちにしていたのだろう。
遥さんも、弟の甲斐が可愛いのだと思う。
私も翼が可愛くて仕方ないから、弟がいる姉の気持ちはよくわかる。
「あの、遥さんは一番上のお姉さんですか?」
「そうそう。私が今三十五で、妹が三十二なの。私は旦那と地元で暮らしてて、妹の恵理香は今は旦那の仕事の都合で函館に住んでるのよ」
「そうなんですね」
普段あまり甲斐から家族の話を聞くことはない。
遥さんは甲斐の幼少時代からの話を、面白おかしく話してくれた。
「悠里って本当に子供の頃から泣き虫でさぁ。まぁ、私と恵理香が弟をいじめてたんだけどね」
「可愛いから、ついいじめたくなっちゃうんですよね。甲斐は今でもたまに泣くことありますよ」
私もお酒を飲むよう遥さんに勧められ、冷蔵庫に入っていた梅の酎ハイをお供に甲斐の話で盛り上がった。