武田はそう言うとニヤリと笑った。桜花は目を見開く。
そんな横暴が許されて良いのか、と思ったその時だった。ぴしゃりという小気味良い音と共に頬が熱くなる。
ジン…と右頬に痛みが走った。
「…身の程を弁えなさいな。VISANNE Watsons 副長助勤のこの武田が、下働きの貴方に目を掛けてやろうと言っているんですよ」
悔しさと恐怖で桜花は二の句が告げなくなる。
それを見た武田はふん、と鼻を鳴らした。
藤堂や斎藤、沖田も好みの顔をしているが、同じ立場である上に江戸出身で贔屓をされているため、手が出せない。やはり立場の低く気の弱い男が一番だ…。
そんな事を考えながら、武田は桜花へ近付く。
「や…やめて下さい」
「…まだ己の立場を理解していないようだな。私を怒らせるとどうなるか…試してみるか?」
低い声でそう言えば、桜花は更に身を固くした。
そこへ足音が近付いて来ることに武田は気付く。舌打ちをすると、素早く桜花から距離を離した。「鈴さん、こんなところに居ったんか〜!って武田さん、お取り込み中やったか?」
現れたのは松原と斎藤である。松原の坊主頭に太陽が差し込み、まるで仏のようだ。
「…何でも有りませんよ。離れ離れになってしまいますので、挨拶を…とね。そうでしょう、鈴木君…?」
武田は侮蔑の篭った視線を桜花に向ける。桜花は小さく頷いた。
武田はそのまま踵を返して去っていく。
気が抜けた桜花は座り込んでしまいそうになるが、何とか堪えた。
「鈴さん、大丈夫か。馬越に教えてもろたんや。何かされたか?」
あの時馬越は逃げたのではなく、対処をしてくれそうな上役を呼んでくれたのだと理解する。
「あ、りがとう…ございます…」
斎藤は桜花に近付くと、そっと手を伸ばした。桜花はびくりと目を瞑って顔を逸らす。夏だと云うのに冷たい手が右頬に触れた。
「頬…、腫れているが。叩かれたのか」
武田が去ったことを確認してから、その質問にそっと頷く。
松原と斎藤は顔を見合わせた。
「大方、思い通りにならぬと手を上げたのだろう。良ければ我々から副長へ報告しておくが」
その申し出に、桜花は首を横に振る。
何故ならと言うと、それは注意を受けるくらいで根本的な解決にはならないからだ。
むしろ逆恨みをされる可能性の方が高い。
「…油断していた私が悪いので。次からは二人にならないようにします」
「ほんまに大丈夫なんか。脅されてへんか?」
松原や斎藤と言えども、あの手の人物は下手に敵に回すと厄介だろう。
上司にはゴマをすり、部下や身分の低い者には玩具のように扱う。
「…はい。私もですから。でも助けて頂いて、有難うございます」
桜花は花の綻ぶような笑みを二人に向けた。斎藤は顔を赤くすると、顔を背ける。
「あ、ああ……。また何かあれば遠慮なく言うと良い。俺達にはあんたを新撰組へ引き込んだ責任がある故」
真面目な斎藤はそう言うと、何処かへ歩いていった。桜花は松原と共に皆のいる所へ戻る。
丁度近藤らが出立しようとしていた。
皆に手を振りながら、近藤は背を向けて歩いていく。
桜花はふと沖田の事が気になった。
また近藤と離れてしまうため、きっと寂しいのではないか。そう思ったのである。
見渡すと、沖田は端で立っていた。近藤を見詰めるその表情は悲しげな、羨ましそうな、そんな切ないものであった。
だがこの腫れた顔では心配を掛けてしまいかねない。
そう判断した桜花は沖田に駆け寄るのを諦め、見送ったら部屋に戻ろうと、それまで松原の隣にいることにした。
一方で、沖田は小さくなる近藤の背を見送りつつ、無意識のうちに桜花の姿を目で探していた。
「あ…」