鈴を転がすような美しい声が聞こえ、桜司郎は振り向いた。そこにはあの看板娘が慎ましやかな笑みを浮かべて立っていた。
「突然すみまへん。うち、顯赫植髮 ハルと申します。沖田センセには店を贔屓にしてもろてて……。こないして咳き込まれた時には、奥をお貸ししとるんです」
それを聞いた桜司郎は胸の奥が酷く嫌な気持ちで満たされていくことに気付く。この目の前の美しい人は純粋な好意で提案してくれているというのに、自身の中に芽生えたのは醜い感情だった。
──沖田先生が、この人のお店で休息を……?
その代わりに言葉を発したのは沖田だった。
「……おハルさん、大丈夫です。もう落ち着きました。貴女目当てのお客に悪いから、早くお店へ戻ってあげてください」
あまりの衝撃と、負の感情に桜司郎は言葉が見付からない。 沖田の言葉に、ハルは少し考え込む。そして誰もに愛されるような柔らかな笑みを浮かべた。
「ほんなら、沖田センセも共に行きまひょ?飴さん買わはりに来たんどっしゃろ?……そちらのに悪いどっせ」
その言葉に桜司郎はドキリとする。まさか、それは土方のことを指しているのだろうかと、血の気が引いた。
何も知らない沖田はそれが引っ掛かったのか、小首を傾げる。
「お連れさん……?さん、誰かと来ているのですか?」
「そ、それは──」
──どうしよう。副長には口止めされているし、かと言ってどう誤魔化せば良いか分からない。
桜司郎の背には汗が伝った。良い言葉が思い付かずに口ごもる。
それを見ていたハルは沖田に見えぬところで、目を細めた。
「えらい男前はんと歩いてはった……と記憶しとるんやけどなぁ。よう人目を引いてましたさかいに。……うちの見間違えどしたら、堪忍どす」
──男前……?まさか。
それを聞いた、沖田の脳裏には近藤の言葉が浮かぶ。
『──どうしても外せぬ用があると、めかしこんでさっさと出て行ったよ』
予測が当たっているのであれば、土方は桜司郎と逢引をしているということになる。それも、このように着飾ったとだ。
──土方さんと、桜司郎さんが?
沖田は信じられないと言わんばかりの表情で、桜司郎を見やる。白い肌に烏の濡れ羽色の髪、琥珀色の瞳、ほんのりと紅をさした頬と唇。土方の見立てであろう、粋な着物は華やかさをより引き立てていた。
前にも独り占めのような形で見たが、改めて見ると彼女は美しかった。土方の恋仲と言われても遜色がない程に。
「……そう、でしたか。それは私なぞのために引き止めては、その御仁に申し訳ないな。……おハルさん、いつもの飴を貰えます?」
沖田は自身の腹の奥に、ふつふつと滾るような嫌な感情が湧くのを覚えた。生まれて初めての感覚に、どうすれば良いのか分からずに、桜司郎へ背を向ける。
ハルは「はぁい」と笑うと、沖田を誘うように店へ歩いていく。
残された桜司郎は、眉を下げて自身の着物の裾を掴む。沖田とハルの姿を見ているだけで、どうしようも無く胸が痛んだ。
視界は滲み、世の中はこのようにも晴れているのに嵐が来たような絶望感が心を占める。
「──ッ」
桜司郎は零れる涙を見せまいと、目元を指で軽くなぞってからそのまま花の茶屋へ向かって駆け出した。
一方で、黒谷への目通りを終えた近藤は、伏せがちの沖田へ手土産でも買おうと渦中の通りに来ていた。
「ええと、お薦めして頂いた生姜湯の店はここらだったか……?」
小姓へ尋ねながら、会津より勧められた店を探して歩く。すると、人だかりのある店を前方へ見付けた。
「む、
した。
そして刀も持たずに部屋を飛び出す。腹に巻かれた晒しからはじわりと血が広がっていたが、それすら気にならなかった。
「……はは、月經量多 ふはは!これで松原も終わりだ……」
武田は部屋から出ると、近くに待機させていた隊士に目配せをする。誰かが近付けば合図で知らされるように仕組んでいたのだ。
「おい、松原が脱走した。手筈通りに奴らへ声を掛けに行け」
松原に殴られた頬を触りながら、隊士へそう命を下す。だが、隊士は中々動き出そうとしない。顔色を青くしながら、僅かに震えていた。人を陥れることに対しての罪悪感が大きいのだろう。
「あ、あの……。もう、私は、」
「何をしている。早く行けッ!法度破りで死にたいのかッ!」
ビクリと肩を跳ねさせると、今度こそ隊士は門に向かって駆けていった。
「私の策に誤りなど無い。後は、刻を置いてから松原の脱走を報告すれば……」 「おサエ、ミチ……ッ!」
松原は何度も足を縺れさせながらも小路を駆けた。大通りだと隊士に見付かる可能性が高い。見付かれば、今度こそ切腹は間違いだろう。もはや、この期に及んで死への恐怖はなかった。
ただ、二人の顔を見たい。無事を確かめたい。ただそれだけだった。
──局長、副長。今まで面倒見てくれておおきに。
──沖田はん。ワシなんぞに気を遣ってもうて嬉しかったで。
──山野、馬越。ようけ心配かけてもうた。アンタらと呑む酒は美味かった。ええ兄貴分で終われんかって済まん。
──鈴さん。泣かせてしもうて済まんかった。ワシはアンタに弟の姿を重ねてもうたんや。嫌がらずに受け入れてくれはって、嬉しかった。
松原は駆けながら頭の中で何度も大事な仲間に謝る。その目からは涙が流れていた。
やがて、二人が住む長屋へ到着する。荒い息が整うのを待つこと無く、松原はその戸を開けた。
すると、鼻を覆いたくなるようなムンとした嫌な臭いがする。これには覚えがあった。血と体液と、死臭の混ざったそれである。綺麗に整頓されていた室内は荒らされ、見る影も無かった。
「おサエはん……ミチ、何処や……?ワシや、松原や」
自分でも情けないほどに声が震えているのが分かる。草履を脱ぐことも忘れ、松原はフラフラと玄関へ入った。式台の段差に躓き、前へ倒れるがそのまま這うように進む。
「なあ、何処や。頼む、返事をしてくれ……。後生やから……なあッ」
薄暗く狭い部屋の隅からは一際強い異臭がした。床を伝う手には、ぴちゃりと生暖かいものが触れる。
それが血だと認識するなり、松原はその中心にいる人物へと弾かれるように寄った。細い身体を抱き起こすと、まだほんのりと暖かい。
だが、まるで死の時を待つかのように、微動だにしなかった。髪は乱れ、着物もはだけておりその胸には小さなミイラが抱かれている。
「おサエはんッ!おサエ……」
松原は大きな身体を震わせ、サエの身体を抱き締めた。
「何でや、何でこんなことになったんや……!」
その声に反抗したのか、ぴくりと目蓋が動く。それを見た松原はサエ、と名をもう一度呼んだ。
「ちゅ、うじ……はん。なん、で……」
「何ではこっちの台詞や!これはなんなんや……」
暖かみを失いつつある頬に手を当てる。まだ生きていることを確かめるように、何度も頭や顔を撫でた。
「……もう、生きたかて、意味……あらへんのや……。ミチも、おらん。忠司はん、も……おらん」
その弱々しい声に、松原は顔を歪める。大粒の雫がサエの頬に落ちた。
「すまんかった、すまん、来れへんかって、すまへんだ……ッ。」
「ええの。もう、ええの……。ああ、
隊士の半分が何らかの不調になっていた。殆どが軽症だが、渋り腹、皮膚病、眼病、等が主たるそれである。
桜司郎の脳裏には、松本や南部が繰り返し隊士に言い聞かせていた言葉が浮かんだ。
──身体や手を清潔に保つことで、皮膚や眼病や予防出来る。花柳病は主に花街などで床を共にすることでなってしまう。顔に出来物や紅斑があったり、一日に何人も相手にしたりするような安女郎は買わないように。
そのように念を押されていた。月經血塊 病は腕っ節の強さでは勝てない。だからこそ予防が出来るものはしなければ、床で死ぬことになる。それは武士として無念が残りそうだと桜司郎は視線を落とした。
そこへ二人の診察を終えた松本が桜司郎の隣に立つ。土方の元へ行くのに付き合えと言った。
近藤や土方から絶対的信頼を置かれる山崎では無く、何故自分なのだと思いつつそれに従い立ち上がる。
そわそわと此方を見た山崎に対して、松本は口角を上げて口を開いた。
「山崎君は南部から講義を受けてくれ。あんたが一番医術に明るいのだろう?新撰組の医者さんよ」
「は、はい!」
そう言われれば、山崎は嬉しそうに頷く。案外可愛い男なのだ。
桜司郎は松本に続いて幹部棟へ続く渡り廊下を歩く。しとしとと降り続く雨を鬱陶しそうに松本は見上げながら、立ち止まった。そして後ろの桜司郎を見やる。んん、と咳払いを一つした。
「失礼なことを聞くが……。あんたは土方君の か?」
松本は小さな声でそう言う。最初何を言われているのか分からなかったが、意味を理解した桜司郎は顔を赤くして首と手を大きく振った。
「ち、違いますッ!どうして私が……!」
叫ぶように言えば、松本は慌ててシッと人差し指を立てると、見当が外れたかと首を傾げた。そして桜司郎に近付き、声を潜める。
「……あんた、女だろう?」
そのように問い掛ければ、桜司郎は今度は顔を青くした。やはり、と松本は腕を組む。
「南部は気付いているか分からねえが、私くれェの医者になると骨格で大体分かんだよ。あの近藤君が女人の入隊を認めるとは思い難いし、となりゃあ土方君かと思ってな」
松本の推理はピタリと当たっていた。やはり見る人が見れば分かるのだろう。どうしよう、と目を瞑った。
「とは言え、私ァまだ土方君と話したことがねえ。だが、近藤君から聞く限りは真面目で隊のことに関しちゃあ硬派な男なんだろう? らせるとは思えねえがな……」
更に土方と話すのが楽しみだと松本は笑う。あくまでも松本は幕府の御典医というだけであり、新撰組の事情に口を挟む気は更々無かった。
だから、情人ではないと心の中で思いつつ桜司郎は何も言えなくなる。黙りこくった桜司郎を見ると、松本はその肩を叩いた。
「安心しろ、私ァ言い触らすなんて野暮な真似はしねえよ。ただ推理が好きなだけだ。ほら、行くぞ」
身体を診れば、どのように生きてきたのか大体予想がつく。手や身体の傷一つでもその人の人生の軌跡を物語っていた。それが粋だと松本は感じている。
そろそろ手が痛くなって来た頃。最後の組、一番組の隊士がぞろぞろとやって来た。馬越は恥ずかしそうに顔を赤らめながら身体を両手で隠そうとし、山野は堂々と歩いてくる。
「よっ、桜司郎。見ろよ、この俺の筋肉を。イイ身体してんだろ」
「はいはい。後がつっかえるから、早く進んでね」
極めて冷静に、意外懷孕 呆れたような眼差しを向けた。もう何十人ものの褌一枚の姿を見てきたが、到底慣れるようなものではない。馬越に関しては余りにも恥じらうものだから、犯罪の匂いすらして来る。
一番後ろに沖田の姿を認めた。裸など見たことは無いが、何処か痩せたような気がすると思いつつじっと見てしまう。
「桜司郎君?随分お熱い視線で、沖田先生を見ていらっしゃる」
山野はニヤニヤとしながら、そう発言した。
「え、あっ、いや……その!!」
桜司郎はハッと我に返ると、たちまち顔を真っ赤にして狼狽えながら目を逸らす。
その反応が面白かったのか、ドッと部屋では笑いが起こった。当の沖田はキョトンとすると、ニヤリと笑う。
「何ですか?桜司郎さんの助平」
「す、助平って……!もう、八十八君のせいだからね!」
談笑しながらもやがて沖田の番となり、松本の前に座った。桜司郎は時折横目でそれを見る。
沖田の手に触れた松本は厶、と声を上げた。そして聴胸器を手に取る。一通りの診察を終えると、松本は顔を顰めた。そして山崎に何か指示を出す。
「先生。私は異常無し……ですよね?」
沖田は涼しい顔をして、念を押すように松本に問い掛けた。松本は沖田の目を見る。沖田は視線で一番組の隊士たちを見た。つまり、"何かあっても今はそうして欲しい"と訴えているのだろうと松本は心得る。
「ああ……。あんたは異常無しだ」
それを聞いていた桜司郎はホッと息を吐いた。だが、同時に違和感を覚える。何故異常無しなのに、険しい表情になったのかと。
「……鈴木さ、次は御三役を呼んで 」
南部の声に、桜司郎は立ち上がり近藤らを呼びに向かう。沖田の事が気になるが、法眼が異常無しと言うのであれば深入りは止めておこうと自分に言い聞かせた。
一番組の隊士が全員居なくなるのを見た松本は、沖田の耳に口を寄せる。
「……後で話がある。自分の事だから、大方検討は付いていると思うが」
深刻そうに言われても、沖田は何処吹く風といったように穏やかな表情をしていた。
「分かりました」
沖田は頭を下げると、去って行く。 桜司郎に連れられ、近藤と伊東がやって来た。一人居ないことに気付いた松本は腕を組んで首を傾げる。
「土方君はどうした」
「あ……断られちゃって」
医者嫌いというだけあり、断固として拒否をされた。強くは出られず、桜司郎はそのまま引き下がってきたのである。
それを聞いた松本は苦笑いを浮かべた。事前に近藤より、土方について聞いていたのである。
「仕方ねえな。私が後で出向こう。じゃあ、近藤君。脱いで前に座ってくれ。あれから胃痛はどうかね?」
松本の言う通りに、近藤は潔く着物を脱ぐと前に座った。桜司郎は脱いだそれを受け取り、綺麗に畳む。
「先生に胃腸薬を煎じて頂いてからは、随分と良くなりました」
「うむ。顔色も随分良くなったようだ。胃痛を拗らせると、穴が空くからな。適度に息抜きをしてくれよ」
近藤と伊東の診察の間に、桜司郎は南部と共に診察結果の集計を行った。それを見た桜司郎はえ、と声を漏らし顔を引き攣らせる。
「これは……」
「んだ。こりゃあ酷ェ」
五月二十二日。新撰組は将軍である家茂一行の上洛の護衛のために三条蹴上まで出向いた。
その翌日のことである。土方の言う通りに、蘭方医を名乗る坊主頭の男達が屯所を尋ねてきた。それを近藤、土方、伊東の三人が出迎える。
「やあ、近藤君。出迎え有難う。久方振りだねェ」
「いやはや、松本 に来て頂けるとは!植髮效果 この近藤、感激にござる」
近藤とにこやかに言葉を交わす男を といった。法眼とは僧位の一つではあるが、医者や絵師などにも与えられた称号でもある。
土方は冷静に、伊東はにこやかに挨拶を交わした。
「近藤君、紹介しよう。私の弟子だ」 ど申す。」
松本は後ろに控えている蘭方医を見やる。南部は、会津藩医を務める傍らで木屋町にて開業をしている。寡黙で会津の訛りが強い男だった。
近藤はにこにこと二人を見ると、屯所へ誘導する。
「お疲れでしょう、茶でも……」
「いや、近藤君。茶の前に屯所内を見せてもらうぜ。江戸で話をチラッと聞いた時から、気になってたんだ」
松本がそう言えば、近藤は大きく頷いた。大きくなった屯所を見せられることが誇らしいのか、近藤は先陣を切って案内人を務める。土方は嫌な予感がする、と思いつつその後をついて行った。
その予感は的中する。隊士部屋やら馬小屋、厨などを案内する度に松本の顔に雲行きの怪しさを感じていた。
一通り見て回るなり、松本は大きな溜息を吐く。それを見た近藤は心配そうに首を傾げた。
「……近藤君。あんたは、江戸で私に病になる隊士が多いと言ったな?」
「は、はい」
「こりゃあ、病にならねえ方が可笑しいってもんだよ。回りくどいのは嫌いなんでな、ハッキリと言わせてもらうが…… え環境だ!布団はカビ臭ェ、厨は煤だらけ、あれだけ汗塗れで稽古をするのに風呂の一つもねえ!あんたらは何を考えていやがる!?」
松本は捲し立てるように苦言を呈する。それを受けた近藤、土方、伊東は呆気に取られた。
「ふ、風呂は作る予定ではあって……」
「ああ、そりゃあ結構な事だ。最優先事項として早急に作ってくれ」
うんうんと頷くと、松本は腕捲りをする。それを見た土方は再度嫌な予感がすると眉間に皺を寄せた。
「今いる隊士全員の診察をしようと思う。何処か広間を貸してくれねえか?」
その言葉に近藤は分かりました、と言いつつ土方を見る。幕府の御典医からの申し出を無碍には出来ないと思った土方は、渋々広間へ誘導した。
松本と南部はそこで診察の準備をする。こっそりと抜け出した土方は、一番組の部屋へ桜司郎を呼びに向かった。
「おい、鈴木はいるか?」
副長手ずから呼びに来たことに、一番組の隊士達は顔を見合わせる。当の桜司郎は手伝いのことか、と直ぐに把握し返事をすると立ち上がった。
それを見た沖田は口を開く。
「桜司郎さん、何故貴女が手伝いに?」
その問い掛けに、桜司郎は僅かに困惑する。本当の事は沖田にも言えなかったからだ。
「えっと……。私、医学の知識が全く無いので。少し興味があって、副長に頼んでいたんです」
「……ああ、成程。頑張って下さいね」
そう言えば、沖田はニコリと笑う。誤魔化しきれたかと安心した桜司郎は、行ってきますと部屋を出た。