藤堂がどこか心配そうに見上げるのへ、会釈で返して。朝の巡察を割り当てられている隊士達が、同じく早々に片付けだした膳を、受け取りに向かった。
次に沖田の姿を見たのは、一刻後だった。
厨房の仕事を終えた冬乃が、兒童英語會話班 掃除の道具を手に隊士部屋へ向かうさなかに、沖田と斎藤が並んで道場のほうへ向かっている後ろ姿が、遠くに見えた。
(これからお二人で稽古なのかな)
見たい・・・
心に沸き起こったその欲求に、冬乃は二人の消えた遠くの角を見つめる。
(ちょっとくらいなら、・・いいよね)
茂吉に心内で詫びながら。
冬乃は、彼らを追って道場へと足を向けた。
近づくにつれ、期待が冬乃の胸を躍らせて。向かう冬乃の足どりは自然と早まる。
床を踏み鳴らす、その剣道特有の音が辺りに鳴り響き、大小様々な掛け声がその音を追う。
「試合すんだってよ」
入口の手間で、永倉の声がした。
「あいつら今来たばかりだろ?もうやるの」
半分呆れたような原田の声が続いた。
「ほんと好きだねえー」
入口から覗くと、戸のすぐそばに居る永倉と原田が、外した面を抱えて立っている。
「あれ、嬢ちゃん」
すぐに気づかれて冬乃は草履を脱ぎながら、ぺこりと会釈した。
「ここなら、俺らでいつも掃除してるから、やらなくていいよ」 手に持っている掃除道具に気づいたのか永倉が、声をかけてきて。
「あ、はい」
きっと朝、道場の端から端まで、皆で雑巾がけをしているに違いない。冬乃は想像しておもわず微笑んだ。
視線を遣れば、道場の向こう側には沖田と斎藤が、それぞれ座って防具をつけていた。
先程聞こえた永倉達の会話からすると、二人が試合を始めるということなのだろうか。
「いや、新八さんがいる時でないと、試合できないからだよ」
永倉の横で黙って腕を組んでいた島田が、ふと思い至った様子で呟いた。
(・・どういう意味だろ?)
冬乃が首を傾げる先、防具を着け終えた二人がほぼ同時に立ち上がり、道場の中心へと向かってゆく。合わせて周囲が竹刀を止め、端へと移動してゆき。
道場の中心には、沖田と斎藤だけになった。
永倉が、おもむろに彼らのほうへと歩み出し。
「では審判は私、永倉が務めさせていただく」
「お願いします」
沖田と斎藤がどちらともなく返しながら、距離を取って竹刀を構え。
次の刹那。
びりっ、と冬乃の肌が鳥肌を立てた。
(・・・え)
静かに竹刀の先を互いへ向け合った二人の。
発した気であると。
冬乃が思い至ったその時、更なる威圧感が冬乃を襲った。
「っ・・」 一瞬息が止まって、冬乃は慌てて意図的に空気を吸い込む。
こんな重圧な闘気を浴びるのは、冬乃の師匠の集まりでの試合以来だ。
(でも今、ここまで離れてるのに)
道場の中心に居る二人から、冬乃までは相当距離がある。
それなのに息をするのも苦しい、酸欠に近い状態を感じながら、冬乃は手に持つ箒の柄を握り締めた。
充満する闘気の中、道場じゅうの人間が固唾を呑んで見守る先で、
微動だにしない二人の竹刀が、互いの間合いの一寸外で、まるで真剣を突き合わせているかのように留まり。
(平成の剣道試合とは違う。・・・おそらく、)
前提が、まるで違うのだ。
冬乃は食い入るように、制止したままの、二人の竹刀の先を見つめ。
―――初めから、
『殺し合うこと』を想定している、試合。
「・・・」
全く動かない二人を、周囲が同じく動きの一つも起こせぬままに。勝敗の決する瞬間を今か今かと待つ。
(凄い)
この、緊迫感。
冬乃の手に、汗が滲んでゆく。
(・・・二人の)
間合いさえ、
(あんなに広い)
―――間合い、
それは、剣の結界であり。
攻撃が一瞬に届く距離。
よって達人ほど、相手の間合いに、不用意に侵り込むことは無い。
「依織ちゃんの場合も、悠里がどれだけ結婚に対して積極的に仕掛けてくるかで変わるかもね」
「……多分甲斐は、積極的になれないと思います」
私は遥さんに、股票户口 自分に結婚願望がないことを甲斐は知っていて、私の気持ちを尊重してくれているのだと話した。
「でも気を遣ってるとかじゃなくて、本当に私と結婚する気はないかもしれないんですけど」
「そっかぁ……あの子、人の気持ちに敏感だからね。優しいから、依織ちゃんを困らせるようなことはしないだろうな」
すると遥さんはしばらく考え込んだ後、何か閃いたような顔をして口を開いた。
「もしくは、依織ちゃんが自分の家族と結婚について深く話し合ってみるとか」
「家族と……ですか?母は結婚に対しては否定的な考えなんですよね……甲斐のことは凄く気に入ってるんですけど」
「そりゃお母さんは否定的になるだろうな。お父さんは?離婚した後は、依織ちゃんと交流ないの?」
「お父さん、ですか……」
父のことを思い出したのは、久し振りだ。
私の実の父親も、二人目の父親も、連絡先は交換しているけれど、用がない限り私から連絡することはない。でも、父から連絡がくることはたまにある。
特に実の父親は、今でも私のことを気にかけてくれているのか、毎月連絡をくれていて昔は外で会って食事をご馳走してくれることもあった。
でも私が仕事を始めてからは、ほとんど外で会うことはなくなった。
誘われても忙しいからと言って断っている。
何となく、父と会うことに何の意味があるのだろうと思うようになってしまったのだ。
今でも、嫌いではない。
だからと言って、好きでもない。
ただ、母を裏切り浮気を繰り返した挙げ句に離婚した父のことを、どうしようもない人だと思っている。
でも、私のことは可愛がってくれていた。
ちゃんと愛情を注いでくれていたことを、大人になった今でも覚えている。
「たまに連絡は取ってますけど、会うのはちょっと……」
「そっか。それならやっぱり、悠里に何とかさせるしか……」
そのとき、玄関の方から扉の開く音と、バタバタと部屋に入る足音が聞こえてきた。
「はる姉!お前どうやって家の中に……」
リビングの扉を開けた甲斐は、ソファーに座る私を見てしばらくの間固まっていた。
「ごめん、やっぱり驚いた?」
「いや、普通驚くって。何で二人で酒飲んでんだよ……」
慌てふためく甲斐を見るのは、やっぱり面白い。
一応、サプライズ成功だと言ってもいいだろう。「旦那から俺に連絡きてたよ。多分今日、遥がそっちに行くと思うから迷惑かけるけどお願いしますって。遅くなるけど、後で迎えに来るってさ」
「何よ、別に来なくていいのに。それより悠里、私たち意気投合しちゃった!悠里が長年片想いしてただけあるわ、依織ちゃん良い子だもん」
「ちょっ、はる姉!」
甲斐は何かを諦めたのか、うなだれるようにその場に座り込み溜め息をついた。
「ていうか、七瀬も……何でここに?」
「残業だって言ってたから、ご飯だけ作りに来たの。この間もらった合鍵、使っちゃった。……勝手なことして、ごめんね」
迷惑かもしれないとも思っていたから一応謝ると、甲斐は更に深い溜め息をついた。
「あー……もう、はる姉マジで邪魔なんだけど」
「別に私のことなんて気にしなくていいから、ここで抱き締めてチューしちゃってもいいわよ。何ならそのまま寝室に行っても……」
「頼むから黙って」
面白いくらい、甲斐が振り回されている。
二人のやり取りが楽しくて笑っていると、甲斐のスマホに電話が入った。
どうやら、遥さんの旦那さんからの着信のようだ。
「何だ、もう着いちゃったか」
「遥さん、本当は迎えに来てくれて嬉しいんですよね?」
「別にー」
なんて言いながらも、遥さんの頬は緩んでいる。ふと時計を見ると、既に時刻は夜九時を過ぎていた。
「あ!私そろそろ帰りますね」
「え、依織ちゃん帰っちゃうの?今日はこのまま泊まっていけばいいじゃない」
「でもうち、犬飼ってて夜ご飯まだあげてないので帰らなくちゃ」
お腹がすくと、もずくは胃液を吐いてしまう。
本当に弱りきった姿を見せてくるから、急いで帰らないと大変だ。
「ねぇ、依織ちゃん。……悠里のこと、よろしくね。あの子、一途だから依織ちゃんのこと大切にしてくれると思うよ」
「……はい」
「あ、でももし泣かされるようなことあったら私に言ってよ!私がシメてやるから」
本当に、弟想いのいいお姉さんだ。
私もいつか翼が恋人を私に紹介してくれる日が来たら、その恋人に「弟のことをよろしく」と言ってみたい。
「はる姉、旦那今札幌入ったからあと二十分くらいで着くって。あれ、七瀬もう帰るの?」
コートを着てバッグを手にした私を見て、甲斐が言った。
「うん。もずく、お腹すいてると思うから」
「じゃあ家まで送るよ」
甲斐はテーブルの上に置いていた車の鍵を手にしたけれど、私はその申し出を断った。「私は一人で帰れるから、甲斐は遥さんといてあげて」
「でも、夜遅いんだし……」
「だって今、旦那さんここに迎えに来るんでしょ?それなら甲斐も家にいた方がいいよ」
それでも送ると言って聞かない甲斐を、私はしつこく説得し、どうにか下まで送るということで話がついた。
「はる姉、俺が下に降りてる間に部屋の中荒らすなよ」
「そんな短時間で部屋荒らすわけないでしょ。じゃあ、依織ちゃんまたね!いつでも連絡して!」
「はい。ちゃんと旦那さんと仲直りして下さいね」
遥さんに手を振り部屋を出た私は、甲斐に付き添ってもらいエレベーターで一階まで降りた。
「マジでごめん。はる姉、うるさかっただろ」
「ううん、凄い楽しかったよ。甲斐の子供の頃の話も沢山聞けたしね」
「うわ、最悪。アイツ、余計なこと言ってそう」
甲斐がいつも私の前で見せる『彼氏の顔』ではなく、『弟の顔』を見れたのはかなり貴重だったし嬉しかった。
私の知らない表情を発見する度に、今よりもっと好きになっていく。
「遥さんといる甲斐、なかなか可愛かったよ」
「バカにすんなよ」
「だって本当に可愛かったんだも……」
甲斐を茶化していると、突然甲斐の手で顔を引き寄せられ、唇が重なった。
『ごめん、今日残業あるから帰り遅くなると思う!』
「甲斐からだった。今日残業あるから帰り遅くなるって」
「ふーん。开股票户口 今日会う約束してたの?」
「うん。どこかで一緒に外食して帰ろうと思ってたんだけど……」
でも、帰りが遅くなるなら仕方ない。
最近新しく大通に出来た、赤身のステーキが食べれるお店に行こうと話していたけれど、ステーキはまたの機会にお預けだ。
「だったらさ、甲斐の家に行ってご飯でも作って待ってれば?」
「え、私一人で?」
「だってこの間、合鍵もらったんでしょ?」
そう、先日甲斐からいつでも家に来ていいからと合鍵をもらったのだ。
でも、まだ一度も使った試しはない。
なかなか使う機会もないし、甲斐がいないときに行くのはどうなのだろうと思ってしまい使えずにいる。
「サプライズでご飯作っておけば、喜ぶんじゃない?」
「そうかなぁ……引かない?重いと思われない?いい彼女ぶってるって思われないかな」
「あんたは少しくらい、いい彼女ぶった方がいいんじゃない?たまには甲斐が喜ぶようなことしてあげないと」
蘭に半ば強引に背中を押された私は、結局仕事を終えた後、自分の家ではなく甲斐が一人暮らしをしているマンションへ向かった。
今夜の食事のメニューは、甲斐の好きな豚のしょうが焼きにした。
とりあえず作ったら少しだけ帰ってくるのを待ってみて、それでも帰って来なければ大人しく退散しようと決めていた。
「……ウザいと思われないかな」
勢いで来てしまったけれど、ここまで来たらもう行くしかない。
重い女だと思われてもいいと覚悟を決めてマンションのオートロックを解除し、エレベーターで上がっていく。
そしてエレベーターから降りると、甲斐の部屋のドアの前に一人の女性が立っている姿が目に映った。
綺麗な黒髪のショートヘアー、意志の強そうな大きな瞳、女性にしては背が高くまるでモデルみたいで、初めて見る女性だった。
まさか、この女性も甲斐に好意を抱いているのだろうか。
嫌な予感しかしない。
気付かなかったフリをして下に戻ろうかとも思ったけれど、この女性と甲斐がどんな関係なのか聞かずに帰ることは出来なかった。
「あの……」
意を決して、甲斐の部屋の前で佇む女性に声をかけた。
すると、彼女の黒く澄んだ瞳が私を捉えた。
「あなたもしかして、七瀬さん?」
「は、はい。そうですけど……」
私の名前を知っていることに驚きながらも肯定すると、彼女の綺麗な顔に笑みが浮かんだ。「やっぱり!前に悠里のスマホの写真で見た顔と同じだからすぐにわかったわ」
なぜか彼女は、とても嬉しそうだ。
不思議に思いながら、その笑顔が誰かに似ている気がした。
「あの、失礼ですけどどちら様ですか……?」
「私、悠里の姉の遥です。悠里とどことなく似てるでしょ?」
「あ……!」
そうだ、甲斐の笑顔に似ているのだ。
まさかこんな所でこんな風に甲斐の家族に会うことになるとは思わなかった。
私は姿勢を正し、自己紹介をした。
「初めまして!私、七瀬依織といいます。甲斐……じゃなくて、悠里さんとはお付き合いさせて頂いてます」
「そんなかしこまらないでよ。ねぇ、それより依織ちゃん、この部屋の鍵持ってたりする?」
「あ、はい。持ってます」
「良かった!どうにか下のオートロックは他の住民と一緒に入れたんだけど、さすがにこの部屋の鍵は持ってなくて。開けてくれない?」
私は急いでバッグから鍵を取り出し、甲斐の部屋の扉を開けた。
すると彼女は「疲れたー!」と言いながら甲斐の部屋に上がり込み、リビングのソファーに腰を沈めた。
「悠里に今日泊めてって連絡したんだけど、返事こなくて。依織ちゃんが来てくれて助かったわ」
人懐っこい笑顔を見せながら、彼女は冷蔵庫からビールを取り出し勝手に飲み始めた。「ねぇ、依織ちゃんも一緒に飲まない?お酒飲める人?」
「飲めるんですけど、とりあえずご飯作ろうかなと思って……甲斐、今日珍しく残業なんです」
この豪快なお姉さんの前では取り繕う必要はないように感じたため、かしこまって甲斐のことを悠里さんと呼ぶのはやめることにした。
「えー!なになに、今日のメニューは?」
「豚のしょうが焼きです。あとは味噌汁とか胡麻和えとか適当に作ろうかなと思って」
「豚のしょうが焼き大好きだわ。お願い!私の分も少しだけ作ってくれる?」
「もちろん作りますよ」
お肉、多めに買っておいて良かった……。
私はキッチンに入り、早速調理を始めた。
遥さんはその間、ビール片手にテレビを見ながらくつろいでいる。
ちょっと強引で破天荒な人のように感じるけれど、憎めない人だと思った。
初対面の私に対しても気さくに話しかけてくれる。
甲斐の人見知りしないオープンな性格は、このお姉さんに似たのかもしれない。
三十分ほどで全ての食事を作り終え、テーブルに運んでいく。
この家の主である甲斐はまだ帰ってきていないけれど、遥さんが早く食べたそうにしていたため、先に二人で食事をすることにした。「肉最高!ビールに合うわぁ。悠里のヤツ、こんな美人で料理上手な彼女がいて幸せ者だわ」
「いや、そんなことないですよ」
「アイツさぁ、もうずっと前から依織ちゃんに片想いしてたのよ。だから付き合い始めたって悠里から聞いたときは、本当に嬉しくて」
甲斐にはお姉さんが二人いる。
家族の仲は決して悪くないと言っていた。
だから私の話もお姉さんたちにしていたのだろう。
遥さんも、弟の甲斐が可愛いのだと思う。
私も翼が可愛くて仕方ないから、弟がいる姉の気持ちはよくわかる。
「あの、遥さんは一番上のお姉さんですか?」
「そうそう。私が今三十五で、妹が三十二なの。私は旦那と地元で暮らしてて、妹の恵理香は今は旦那の仕事の都合で函館に住んでるのよ」
「そうなんですね」
普段あまり甲斐から家族の話を聞くことはない。
遥さんは甲斐の幼少時代からの話を、面白おかしく話してくれた。
「悠里って本当に子供の頃から泣き虫でさぁ。まぁ、私と恵理香が弟をいじめてたんだけどね」
「可愛いから、ついいじめたくなっちゃうんですよね。甲斐は今でもたまに泣くことありますよ」
私もお酒を飲むよう遥さんに勧められ、冷蔵庫に入っていた梅の酎ハイをお供に甲斐の話で盛り上がった。
「……多分、凄く喜ぶと思う。うちの家族皆、甲斐のこと大好きだし」
「喜んでくれたら、俺も嬉しい」
報告する瞬間、きっともの凄く緊張してしまうだろうけれど、喜ぶ家族の顔が見れるならちゃんと報告しておこうと思った。
「……何か、朱古力瘤手術 眠たくなってきちゃった」
「いいよ、寝な。おやすみ」
「おやすみ……」
甲斐に抱き締められていると、あまりの心地よさに眠気が襲ってくる。
甲斐の温もりは、どんなときでも私の心を落ち着かせてくれるのだ。
明日の朝起きたら、今日よりもっと甲斐のことを好きになっている。
誰よりも傍にいながら、夢の中でも会えたらいいのに……なんて欲張りなことを願い眠りについた。翌朝。
私と甲斐は二人でキッチンに並び、一緒に朝食を作った。
「七瀬、魚そろそろ焼けてるんじゃない?」
「え?あ!忘れてた!」
慌ててグリルを開けると、二匹の秋刀魚がこんがりと美味しそうに焼けていた。
「ちょうどいい感じに焼けたね。他のことやってたらすぐ忘れちゃう」
「危なく焦げた魚食わされるところだった……今度は俺が魚担当するわ。七瀬に任せたら危なっかしい」
「失礼ね。たまたま忘れてただけでしょ」
遥希と同棲していたときは、家事は完全に私一人で担当していたけれど、甲斐は一人暮らし歴が長いから家事は大体何でもこなせる。
だからこうして私の家に泊まりに来たときは、朝から一緒に料理を楽しむことが出来るのだ。
「七瀬、これ味見してみて」
「うん。……美味しい!これ本当にうちの味噌使ってるの?」
「使ってるよ。わざわざ家から味噌持参してないし」
甲斐が作る料理は、どれも本当に美味しくて私好みの味に仕上がっている。
まるで甲斐の優しさが滲み出ているような、家庭的な味がする。「朝から美味しい秋刀魚が食べれるとか幸せ過ぎる……しかも大根おろしまで付いてるし」
「秋刀魚に大根おろしは欠かせないだろ。あとポン酢な」
「甲斐が神様に見えるよ……」
「大袈裟だって」
テーブルには、秋刀魚の他に甲斐が作ったわかめと豆腐のお味噌汁、イカの塩辛ときんぴらごぼうが小鉢で並んでいる。
「美味しい……身体中に染み渡る」
「これでそんなに感激するとか、お前いつもどんな朝食食べてんだよ」
「普段は適当だよ。納豆と卵混ぜてご飯にかけて食べるとか」
一人暮らしの身で、朝からちゃんとした食事を用意して食べる人はこの世の中にどれくらいいるのだろう。
「朝食は一日で一番大事な食事なんだから、ちゃんとしたもの食べた方がいいよ」
「お昼にコンビニ弁当ばっかり食べてる甲斐に言われてもなぁ……」
「生意気言うな」
親友だった頃と、話す内容はそこまで変わっていない。
でも、二人でいるときの空気は確実に変わったと思う。
ふとした瞬間に、甘さを感じるのだ。
「まぁ、これから一緒にいるときは俺が作るからいいけど」
そう言って甲斐は、私の口の端に付いていたご飯粒を指で取り、微笑んだ。時折見せる甲斐の甘い笑顔が、胸を貫く。
この笑顔が、今だけだなんて思いたくない。
甲斐の気持ちを疑っているわけではないのに、いつか離れていってしまうのではと思うと怖くなる。
あと一年、二年、三年後……私たちは、どうなっているのだろう。
今と同じように、隣で寄り添っていられるのだろうか。
「七瀬、どうした?」
「え?」
「箸、止まってる」
「あ……ごめん、考え事してた。朝ご飯早く食べて家出る準備しないとね!」
私は甲斐よりも先に朝食を食べ終え、シャワーに入り軽く化粧を施した。
私が一人暮らしをしているマンションから実家までは、車で約三十分ほどの距離だ。
甲斐の運転で実家へ向かう途中、何か手土産を買いたいと甲斐が言ったため、近所で人気の和菓子店で大福をいくつか購入した。
そして昼前に実家に到着すると、玄関にはなぜか翼と祖父が並んで立っていた。
「ただいま……どうしたの?二人揃って出迎えてくれるなんて……」
「姉ちゃん、甲斐くんと付き合うことになったの!?」
「え……」
今日は甲斐を連れて行くとしか翼には伝えていなかったのに、既に見抜かれてしまっているようだ。
翼の目はキラキラしていて、祖父もどこか浮かれた様子だ。
チラリと隣を見ると、楽しそうに笑う甲斐と目が合った。
「何だ、もうバレてるんじゃん」
甲斐のその言葉を聞いて、翼は喜びのあまり甲斐に抱きついた。
「甲斐くんありがとう!姉ちゃんと付き合ってくれてありがとう!」
「甲斐が依織の傍にいてくれるなら、わしも安心だ。依織、良かったな」
私の家族はどれだけ甲斐のことが好きなのだろう。
見ていて少し恥ずかしくなる。
「もう、とりあえず翼、甲斐から離れてよ」
「別にハグくらいいいじゃん」
「ていうか、何で私と甲斐が付き合い始めたってわかるの?」
「甲斐くん連れて来るって聞いた時点でわかったよ。だって姉ちゃん、母さんに相談してたんでしょ?甲斐くんのことが好きだって」
「ちょ……バカ!」
慌てて翼の口を手で塞いだけれど、もう遅い。
恐る恐る甲斐を見ると、甲斐は意地悪な笑みを浮かべていた。
「へぇ。お前、そんなに俺のこと好きだったんだ」
「……調子に乗らないでね」
「否定しないの?」
「否定は……したくない」
実家の玄関に、変に甘い空気が流れ始める。
でもそんな空気に気付いたのか、祖父が邪魔するように口を開いた。
「お前たち、イチャイチャするならよそでやってくれ。目のやり場に困るだろうが」
そう言う祖父も、どこか嬉しそうだった。
それから翼も交えて三人でコーヒーを飲み、私と甲斐は揃って家を出た。
「もずく、stock broker 行ってくるね!明日になったらすぐ迎えに来るからね」
「キャンッ!」
「……やっぱり、もずくも温泉に連れて行こうかな」
「却下。今日泊まる所、ペット禁止だろ。行くぞー」
もずくとの別れを惜しみながら家を出て、甲斐の車の助手席に座った。
車に乗った途端、甲斐の香りが鼻をくすぐる。
今まで何度もこの車には乗っているのに、まるで今日初めて乗るような妙な気分に陥った。
「ほら、シートベルト締めて。何ぼーっとしてんの?」
「あ、ごめん。つい……」
発進した車の中では、私と甲斐が好きなバンドの曲が流れている。
運転しながら鼻歌を口ずさむ甲斐は、どこか楽しそうだ。
「何か、こうやってお前と二人になったの久し振りな気がする」
「確かに……そうかも」
「最近俺もいろいろバタバタしてたから、仕事の後に飯とか誘えなかったし」
ここ最近、甲斐は本当に忙しそうだった。
仕事の後に食事に誘われることはなかったし、職場で甲斐と顔を合わせることも少なかった。
こうして誰も周りにいない空間で二人きりになるのは、どれくらい振りだろう。甲斐といると落ち着くのに、二人きりなのだと意識すると、少しだけ緊張する。
私はその緊張を悟られないように、運転する甲斐に明るく声をかけた。
「今から蘭の家まで迎えに行くんでしょ?」
「桜崎の家には行かないよ。待ち合わせ場所の札駅北口に向かってるけど」
確かに車は、蘭の家がある西区方面ではなく、札幌駅方面に向かっているようだった。
「え、そうなの?てっきり、家まで迎えに行くんだと思った」
「何で?」
「だって、わざわざ私の家まで迎えに来てくれたから……」
「お前は特別だし」
「……」
特別。
甲斐が何気なく口にしたその言葉の意味を、私はバカみたいに頭をフル回転させ考える。
ひとまず、嬉しい言葉だということに間違いはない。
危うく、勘違いしてしまいそうになる。
でもそんなとき、真白さんが私に言った言葉を思い出すのだ。
甲斐が私と一生友達でいたいと言っていた事実が、頭にこびりついて離れない。
「今日お前の家まで迎えに行ったのは、二人きりで話せる時間が作れると思ったからだよ」
「え……」
「こうやって、久し振りにゆっくり話したかったんだ。向こうに着いたら、きっと桜崎がお前のこと独り占めするだろうから」甲斐の発言が、さっきからやけに甘く感じてしまうのは気のせいだろうか。
気になることを全て直接聞き出すことが出来たら、どれだけ楽になれるのだろう。
素直になりたいのに素直になれないのは、相手が甲斐だからだ。
それでも、今は少しだけ頑張ってみようと思えた。
「……うん。私も、甲斐と二人でゆっくり話したかった」
「え?」
「最近あんまり話せてなかったから……正直ちょっと寂しかったし」
頑張って自分の気持ちに素直になってみると、少し胸の奥が晴れていくような気がした。
すると突然、甲斐が急ブレーキを踏み車は停止した。
見ると目の前の信号は赤になっていた。
「わっ!びっくりした……」
「いや、驚いたのは俺の方だから」
そう小さく呟いた甲斐は、車のハンドルにもたれかかるように顔を埋めた。
「……こんなんで喜ぶとか、俺単純過ぎじゃん」
「え?何?」
甲斐の声が聞き取れなかったため聞き返すと、信号が青に変わり車が動き始めた。
とりあえず二人でいられるこの時間を無駄にしたくなかった私は、思い付くままに甲斐に話題を投げかけた。「そういえばこの間、甲斐が前から行きたがってたラーメン屋テレビに出てたよ」
「え、あの鶏白湯のラーメンの店?」
「そう!あそこ人気店なんだね。平日でも行列出来るんだって」
「行きたいんだけど、土日の行列ヤバそうだよな。駐車場に車入れるのも並ぶらしいし」
「凄いね、そんなに混むんだ」
別に今話さなくてもいいような話ばかりが口から飛び出てきてしまう。
真白さんとは、どうなっているのか。
今も頻繁に会っているのか。
蘭との待ち合わせ場所に着くまでの間、本当に聞きたかったことは何一つ聞けなかった。
「あ、桜崎いた」
札幌駅北口のすぐそばにあるコンビニの前で立っていた蘭は、後部座席に乗り込むとすぐにマシンガントークを繰り広げた。
「ここのコンビニの店員にイケメンいたんだけどさ、明らかに十代なんだよね。でも超絶可愛いの!十以上年下の男の子にキュンとしちゃうとか、ヤバいよね」
「蘭って年下好きだっけ?」
「好きじゃない。目の保養にするならいいけど、付き合うのは絶対無理」
「特に十代なんてアウトだろ」
蘭の止まらないトークのおかげで車内は一層賑やかになり、登別温泉に着くまでの間、会話が途切れることはなかった。「あ、鬼だ」
「この赤鬼、いつ見ても存在感あるよね」
「子供の頃、この鬼見て泣いてた記憶ない?」
「あるある!」
登別温泉の入口では、巨大な赤鬼のオブジェが観光客を出迎えている。
近くには地獄谷という観光地があり、源泉が沸き出ている景色を観察することが出来るのだ。
子供の頃から登別温泉に来た際は何度も見ている光景なのに、大人になっても変わらず楽しめてしまう。
周りは自然が溢れていて、とても魅力的な場所だ。
道外や海外を旅行するのももちろん楽しいけれど、子供の頃から行き慣れている場所を大人になってから訪れるのも、また違った楽しさがあると思う。
「高速乗って一時間半で来れるとか、近いよね」
「うん、やっぱりたまにはいいよね。こういう所に来ると、ストレス発散になる」
「七瀬、最近ストレス溜まってんの?」
「そりゃあ……溜まるでしょ。……仕事をしてれば、いろいろあるし」
ストレスは、何かについて深く悩んだり考え込んだりしたときに溜まっていくものだと私は思っている。
今の私は、仕事のことで深く悩んでいるわけではない。
むしろ最近は、仕事のこと以外にばかり目が向いてしまっている状態だ。